もしドラの人にとっての炎上とは何なのか?



もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら(1) (ジャンプコミックスデラックス)

私が「もしドラ」について書いた一連の記事*1 *2 *3について、「もしドラ」の作者から長文で返信をいただいた。


「小説の読み方の教科書」を書き、それを伝えていくのがぼくの使命
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20110812/1313128129


270万部突破の大ベストセラー作家が、私なんかのために(?)、こんなに長文を書くことになろうとは!本当、申し訳ない。その点については、深くお詫びするとともに、返信をいただけたことに心から感謝する次第である。



まあ、それはそれとして、以下は、戦闘用予定地。かきかけ。あとで続きを書く。以下に、たいへん素晴らしい記事を書いて、この記事自体が大量にはてブされることによって、向こうからもらったぐらいのPVを向こうに返すのが礼儀というもの。地球のみんな、オラにはてブを分けてくれ…!!!(←はてブ乞食)→以下に書いた。


もしドラの作者(以下、ハックルさん)に、じっくり考えて反論を書こうと思っていたら、すでに私が反論の材料に使う予定だったおいしいところは全部他の人に持って行かれている。*4 *5 *6 *7 *8 *9


このように、カラスに散々、食い散らかされたかのような残滓を使って、読むに耐えるようにおいしく調理するのが、私の腕の見せ所である…って、ハードル高いな!寝る前にベリーイージーだったのが、寝て起きたら、エキスパートモードになってやんの。なんだこりゃ。


それでこれ以上放置するとさらに誰かがハックルさんにツッコミ続け、私の難度はエキスパートモードからルナティックモードになってしまうことは想像に難くないので、私としても急いで何か記事をここにアップしなければならない。



しかし正直に言って、私はハックルさんに反論する気にはなれないのだ。今回、ハックルさんは、ベストセラー作家の仲間入りを果たしてもまったく変わっていないという安心感を我々に提供してくれた。ベストセラー作家になってから天狗になる人も多いなか、ハックルさんは、ベストセラー作家になる前から天狗であり、なったあとも天狗なんだよ!これはなかなかありえないことだ。いや、本当に。


ベストセラー作家になる前に天狗の人は、普通なったと同時に萎縮してしまう。「金持ち喧嘩せず」であって、余計な騒動を避ける傾向にある。というか私ならそうする。4億円ぐらい印税でぽぽぽぽーんと儲かったら、ブログも開店休業中にして、毎日、猫の写真でもアップしてなるべく誰からも恨まれず、余計な騒動を起こさず、毎日「桑原桑原」とでも唱えながらなるべく目立たないように生きる。それが賢い生き方ではなかろうか。


ベストセラー作家になってからも読者からの意見に真摯に耳を傾け、そしてムキになり、本気で反論をしてくれるのはハックルさんだけである。ファンサービスが旺盛なのにもほどがある。私はハックルさんのことがますます好きになった。



これらは冗談ではなく、ベストセラー作家に私がそこまでさせたということが本当に申し訳なくて、もはやハックルさんの記事内容に対して反論する気になど私にはなれない。なれようはずがない。


インターネットの歴史において、いや、出版界の歴史において、270万部突破の大ベストセラー作家が、たかだか一人の読者が自分のブログに書きなぐった感想文を、詳細に渡って取り上げ、ムキになって、事細かに反論したような事例はいまだかつてあっただろうか。おそらくないだろう。そして今後もありえるだろうか。私には全く想像もつかない。本当、夢みたいな話だ。しかも、その当事者が私なのだ。いやはや。



だから、一転して、これ以上ハックルさんの手を煩わせないで済むように、ハックルさんのわかりにくい説明を私が補足するという、逆を行く流れにする。



その前に、「後出しジャンケンだ」と非難されることを覚悟の上で言うが、私は早くからハックルさんの才能を見抜いていた。以下は、2008年当時に、ハックルさんの記事につけた私のはてブである。





他人のこの手の読み物に、滅多にはてブなんかつけない私ではあるが、この人は別格だとそのときから思っていたし、「この人は将来、本を出す。そして大当たりする。」と思っていた。その予想は見事に的中した。


「そんなの偶然だろ?」と思われるかも知れないが、私ぐらいのレベルになると相手の戦闘力がドラゴンボールスカウターのようにして手にとるようにわかるのだ。


その私の心のなかのスカウターを通じて、ハックルさんのことは「なるほど、戦闘力は120000か。ザーボンドドリアがかなわんはずだ」とか、そんな風に思っていた。そして、私の戦闘力はたぶんその半分以下で、明らかに文章力、構成力においてハックルさんより劣っていたし、いまもたぶん劣っている。


だから私は「もしドラ」が大ベストセラーになったことを全く偶然だとは思っていないし、「表紙とタイトルだけで売れた」「アイデアはいいけど内容がない」「文章が下手」だとかは全く思っていない。ハックルさんの文は独特のクドさがあって、悪文の典型みたいな文もときどき見受けられるが、マーケティング手法だけで売れるなら作家は誰も苦労しないのである。


では「もしドラ」の何がそんなに優れていたのか。私はタイトルのつけ方のうまさなどを除けば、内容的には、mind-masterさんの次の記事に書かれている“discommunication”がこのストーリーで一番魅力的な部分だと思っている。(ネタバレ注意)


異なる経験――やねうらお氏と、岩崎氏の間
http://d.hatena.ne.jp/mind-master/20110813/1313248062



まあ、そんなハックルさんが特異な感性の持ち主であることはいまさら言うまでもないことだが、ハックルさんは度々「炎上などしていない」と自慢気に言う。*10



でも、ハックルさんのはてブにはいつも批判ばかりである。*11 ハックルさんはこれをどう見ているのか。これは炎上ではないのか?あるいはハックルさんにとって批判ですらないのか?




もしかして、ハックルさんにはこう見えているのか?


↓↓↓


歌丸「最近、インターネットで炎上マーケティングが流行ってますね。まず、やねうらおさんという人のブログで、もしドラのことがボロクソ書かれますので、みなさんははてブしてください。ホットエントリー入したら私がムキになって自分のブログでその記事を全力で否定をしますので、みなさんは私のブログにはてブでツッコミを入れてください。はい、楽さん早かった」



……いや、全然ちがうかも知れない。私にはよくわからない。
前置きが長くなってきたのでそろそろ本題に入ろう。



今回のハックルさんの反論の骨子は、書店員は女子高生の雰囲気からその女子高生に何が必要であるのかすべてを感じ取ってドラッカーの本を勧めた。そしてそれは結果的にも(物語を最後まで通してみればわかるように)間違っていなかったしベストな選択だったというものだ。



この説明にポカーンと開いた口がふさがらない人も多々いることだろうが、私はここから学ぶべきことは多いと思った。




ここでは“結果的にも”という考えかたが非常に重要なので、この部分をもう少し掘り下げて書く。


その前に一つだけお断りしておくが、この書店員の接客自体が適切だったのかどうかについて、私はあの接客の方法は実世界においては不適切な接客だといまでも思ってはいるが、そこは最終的には個人の感性の問題なので、ここで再度取り上げることはしない。私は長年、会社を経営するなかで客対応もしてきたから、その基準がすこぶるシビアなだけかも知れない。まあ、そういうことにしておこう。



さて、私の1番目の記事*12では、もしドラのコミック版の紹介に主眼があったので、私はコミック版の1巻の範囲を物語のディスクール(≒言説空間)だとしなければならなかった。


これは、そのあとの展開をネタバレさせるわけにはいかないという読者への配慮と、そのあとコミック版の2巻が出たら、また私は自分のブログで紹介することによって、アフィリで一儲けしようという下心もあった。(いや、一儲けっていうほど儲からないんだけど)


コミック版の1巻の範囲では、結果的に書店員の行動が正しかったかどうかはわからないし、むしろ失敗の可能性も濃厚であった。だから私はこの書店員の行動は“結果的にも”失敗だったとして扱った。



さていま、物語のディスクールを小説版のラストまでに拡張した場合、この書店員の行動は失敗だったと言えるか?



私はそう言えるかどうかは微妙だと思う。


むしろ、場合によっては、ハックルさんが言うように書店員の行動は、これがベストの対応であり、“結果的にも”正しかったことが証明されてしまうように思う。


これには、多くの人が「それは結果論ではないのか?」と異議を唱えるかも知れない。



この部分が実は今回の議論の核となる部分で、そして創作術とも深く関わってくる部分でもあるのだが、創作に興味のない人にこの部分について説明するのは容易ではないので、現時点では、読者の方は「最終的な結末から逆算して、それぞれの登場人物のそこまでの行動が正しかったのかどうかが判定できる」という小説特有の原理があるのだと仮定して以下をお読みいただきたい。


実際、このような「終わりよければ、(その過程まで含めて)すべて良し」の原理とでも呼べるものが小説では通用することがあって、この原理を利用しながら読解を進めることは多々ある。これがハックル流読書術に含まれるのかどうかは知らないが、そういう読解上のテクニックは確かにある


おそらく、この部分において私とハックルさんは同じ考えの持ち主なのだ。私は物語のディスクールをコミック版の1巻に限定していたから結論が違っただけだ。私はコミック版の1巻の途中に書かれているハックルさんの文章を取り上げるのだから、当然、その範囲から出てはいけないだろう&はみ出る話はしていないだろうという仮定を私はしていた。


ところが、ハックルさんは物語を最後まで読まないとわからない事実まで前提に含めていた。「終わりよければすべて良し」の原理によると、物語を最後まで読まなければ書店員の行動が、“結果的にも”正しかったかどうかは確定しないので、コミック版だけを読んでいる読者にとっては、書店員の行為が、正しいのか正しくないのか1巻の時点では判定できない。1巻の終わりまで読んでも川島みなみがこの本を活かしているようには思えないので書店員の行動は正しくなかったと暫定的に判定するしかない。


このように、書店員の行動の正しさを判定できない状態を作者自ら作っておきながら、コミック1巻の途中で「なんで書店員がドラッカーを勧めたかわかんないの?馬鹿なの?正しいから勧めてんじゃん」(意訳)と読者に迫るから、コミック版でこの文を読んだ読者が猛烈に気を悪くするわけである。


簡単に言うと今回の問題は本質的にはそういう構図だったのかなぁと。



以下、「終わりよければ、(その過程まで含めて)すべて良し」の原理についてもう少し書いていく。
創作に興味のない人はここで回れ右してブラウザを閉じていただきたい。



今回の一連の記事のなかで、私は物語において、記述されていない部分は読者が勝手にイマジネーションを働かせて読むという話をした。*13


そして記述された瞬間に物語は確定する。それは量子力学において観測によって一つの状態がある確率で実現するのとまったく同じだ。


「その女が家に帰ったのは朝の5時であった」と書いた瞬間、朝の5時まではその女が外に居たことが確定する。時間を遡及して行動が確定する。確定できるのは行動だけではない。心理状態だってあとから確定できる。


心のなかというのは、特別な描写をしない限りなかなか読者には見えにくい部分である。しかし例えば女スパイが敵の組織に侵入し、物語の最後で敵の組織の男性と駆け落ちしたらどうだろう。女スパイはいつからか自分の組織を裏切るつもりで行動していたことがその時点で確定する。場合によっては物語の冒頭にまで遡って、女スパイが自分の属する組織を裏切るつもりであったことが確定する。


このように行動の描写一つでいままで確定していなかった時空を整合性のとれる範囲でどこまでも遡ってその過程を確定できる。それこそが小説であり、それこそが記述するという行為なのだ。


また、この考えをもう少し敷衍していくと、主人公がハッピーエンドになったという結末から、そこまでの主人公の行動はそれ相応に適切だったと、そこまでの主人公の行動ひとつひとつに対して“逆伝播”することだってありうると想像がつく。


[工学系の人向けの説明] この仕組みは、ニューラルネットバックプロパゲーションの仕組みにとても似ている。物語の結末を教示信号として、それが自然な結末(出力)となる方向に、そこまでの登場人物の行動の善悪/価値判断などを読者が自分の頭のなかで自動調整しようとするわけだ。ニューラルネットは人間の脳の仕組みにかなり近いと言われているが、ニューラルネットで生じることは、人間の脳のなかでも同じように生じていると考えられるので、結末からそこに至る過程の善悪の判断をするという心理が頭のなかで働くのは不思議ではないだろう。


これが、小説において「終わりよければ、(その過程まで含めて)すべて良し」という原理が時として成り立つ理由である。



以上は、私の創作論で、ハックルさんのそれとは違うかも知れませんが、こういう話が好きな創作畑の人には何かいい刺激になるんじゃないかなと思い、ついでなので書いてみました。あと、ハックルさんはいずれ創作術の本を出すんじゃないかと私は予想しています。いや出すべきでしょう。マジで。



私の話は以上で終わりです。長文にお付き合いいただきありがとうございました。あとはてブしてくれた人もありがとう。