人生はゲームだ


ときとしてゲームプログラマーの間でも紙芝居型のノベルゲームがゲームに属するのかどうか議論の対象となったりする。


私は広義の「ゲーム」を次のように定義すればどうかと思うんだ。


与えられた制約条件を満たす解を求める行為のこと。


この意味において、「x + 1 = 2 のときの x の値について求める行為」は紛れもなくゲームである。
「先月は外食をしすぎたから今月は食費は3万円以内でやりくりしなきゃ」も間違いなくゲームである。


このように考えていくと我々の生活シーンで見られるほとんどの行為が実は広義の「ゲーム」に属することがわかる。人生はミニゲームの集合体なのだ。


また、この制約条件が厳しいほどゲームとしては難度が高く、難度が高いほうが脳をより動かさないと解けないので、高度なゲームである。一般的に言って、適度に高度なほうがゲームとしては面白い。


すなわち、
「先月は外食をしすぎたから今月は食費は3万円以内でやりくりしなきゃ」ゲームよりも
「先月は外食をしすぎたから今月は食費は1万円以内でやりくりしなきゃ」ゲームのほうが面白い。


だからテレビの企画で「1ヶ月1万円生活」のようなものが視聴率を集めるわけだ。


ところが、これが
「先月は外食をしすぎたから今月は食費は500円以内でやりくりしなきゃ」
のようになってしまうと、これはゲームとみなすならいわゆる「無理ゲー」である。


天才的なプレイヤーが「無理ゲー」をクリアする姿を見るのはスーパープレイを見るときのように驚きと清々しさがあるので、こういう「無理ゲー」ぎみの設定に対してプレイヤーがいかに立ち向かうのかは漫画やドラマの世界では面白いのだが、実際にやらされるほうはたまったもんじゃない。


では逆にこの条件を甘くしていくとどうなるのか。


「先月は外食をしすぎたから今月は食費は300万円以内でやりくりしなきゃ」
だと、もうすでにゲームとして成立しない。ゲームとしてぬるすぎるのだ。これではゲームデザイン的に見ても面白いものじゃない。


つまり、上で「人生はミニゲームの集合体」だと私は言ったが、お金に余裕が出てくるとぬるすぎてゲームとしては破綻してくる。お金に余裕があって欲しいものが何の苦労もなく買えて、掃除や洗濯をお手伝いさんがやってくれて…なんて状況だとミニゲームがほとんど存在しないのだから。


こう考えると人生は、お金に余裕がなくて波瀾万丈であるほうがゲーム的には面白いことがわかる。あまりに条件が厳しくて無理ゲーの域に達するとストレスも相当なものだろうけど。


あと「人生はミニゲームの集合体」だと思えば、この世界を作ったのが誰かということにあまり興味がわかなくなる。


だってプレステのゲームとかやってても、ゲームプログラマーが誰であるだとか、キャラクターデザインや着色が誰であるだとか、別に気にならないじゃん。気になる人だけ気にすればいいのであって。気にしたくない人は気にしなくていい。それを調べないと眠れないだとかいう人はある意味、可哀想な人である。それと同じで、この世界がどういう仕組なのかだとか、神様は実在するのかだとか、統一場理論だとか考えても仕方がない。気になる人だけ気にすればいい。気にならない人は気にしなくてもゲームの進行上、何ら問題がない。


だから、我々の人生は与えられたミニゲームをこなし続けるだけでいい。誰がこのミニゲームを我々に与えているのかだとかそういうのを気にしても仕方がない。気になるなら気にすればいいが、気にしなくともゲームの進行上、何の問題もない。


そう割り切るとある程度人生が楽しくなるんじゃないかと思う。あなたは「我々にたくさんのミニゲームを与えてくださってありがとうございます」と神様に感謝したくなる。しかしあなたは神様について、神様が実在するのかだとかそういったことまでは考える必要がない。だってプレステのゲームとかやってても、ゲームプログラマーが誰であるだとか(以下ループ)