ひぐらしのなく頃に

yaneurao2007-06-15



ひぐらしく頃に』(以下「ひぐらし」)のアニメの第一期分(全26話)がニコニコ動画にupされたので通しで見た。(今日の写真は、登場人物を頭のなかで整理しきれなくなったので書き留めたメモである。)


http://www.nicovideo.jp/mylist/13385/853621


ひぐらしのなく頃に祭(通常版)
アルケミスト (2007/02/22)
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この作品は、蟻の空けた一つの穴から漏れ出した水が堤防を決壊させるように、些細なことから血塗られた惨劇へと物語が発展して行く。前半の平穏な日常風景と後半の悲劇的なカタストロフィーとの落差こそがこの作品を印象的なものたらしめている。

ファミコンのゲームでゲームオーバーになって、ゲームを最初からやり直すのと同様に、ひぐらしの主人公は何度も何度もこの世界を最初からやり直す。このとき原則的に主人公の記憶は継承されない。これはギャルゲーに限らずテレビゲームではよくあることだ。しかし、このことが記憶をリセットされる主人公と記憶をリセットされないプレイヤとの間で致命的な乖離を生む。


 以下、ネタバレあり。


主人公の行動選択が平行世界パラレルワールドを無数に生み出すので、どう転んだとしてもそれは世界が取り得る一つの結末に過ぎない。このようなシニシズムが「例え主人公が行動選択を間違えたところで他にみんながハッピーエンドになる選択肢があるのだろうから、ゲームオーバーになってもまたやりなおせばいいや」という安易な考えを導く。これは、物語にとってリアリティの喪失に他ならない。


これを掻き消すためには、主人公はプレイヤと記憶を共有しなければならない。主人公は前回ゲームオーバーになるまでの記憶を保持していなければならない。プログラマにわかる用語で言えば、記憶の永続性persistencyである。


とは言っても、これを主人公が物語を超越した視点(≒作者と同じ視点)を持ち得るいわゆるメタフィクション的に解決するのではなく、主人公が幾度となく味わう惨劇の記憶を平行世界から手繰たぐり寄せて来るのが「ひぐらし」であり、こうすることで幾度となくプレイヤの前で繰り返される出口なき惨劇の迷路を、(単なる平行世界の結末の一つとして看過せずに)よりリアルなものにしている。それぞれが可能性の一つ一つなのではなく、すべてが現実なのである。このことは、通常のメタフィクションにおいて物語のリアリティが失われるのとは、対照的だろう。

そう、それこそがとても簡単でとても身近なところにある万能の鍵だった。お互いを許し合い、約束し合うことで疑心暗鬼に打ち勝ち、全ての惨劇を解決できる魔法の鍵のはずだった。だが、その鍵だけでは開けられない謎がまだこの雛見沢には残っている――。

(第26話より)

竜宮レナがL5(最大に狂人化した状態)から(主人公からの信頼などにより)唯一、奇跡的に恢復かいふくする姿が描かれているが、「ひぐらし」においてはそれが用意されている最良の結末なのではなく、瞠目すべきはそうした結末までのすべての集合が雛見沢という村を舞台に展開されるひとつのシリアルな物語ストーリーということである。