コンピュータは人間を追い越すのか?(5)

「詰め将棋」は「詰む将棋」だ。つまり詰むことが保証されている。一方、実戦では詰むや詰まざるやという局面が存在して、それを的確に判断する感性が必要になる。


将棋を構成するのは「読み」ではないのか?まして、詰将棋のような終盤では読みこそが命でどうして「感性」のような曖昧な指標が出てくるのだろかと思われるかも知れない。


ちょっと以下の局面を見ていただきたい。これは、96年名人戦第5局のハイライトシーンである。

























歩5


森内八段(当時)は、26分考えて3九飛成。羽生名人(当時)は32分考えて3三馬。森内八段5分で6九銀。この6九銀が敗着となった。森内八段はこの手が詰めろだと思った。放置すれば次に詰むと錯覚したのだ。確かに、パッと見、詰みそうではある。でも実は詰まない。ギリギリ逃れている。羽生名人は18分考えて6九銀が詰めろでないことを看破して5三香成とした。*1


簡単に言ってみれば、森内八段は詰むことを読みきれていなかったのだ。まあ詰まない将棋なのだから、詰みを読みきれないのは当たり前なのだが。実は、人間にとってこの局面が詰まないことを証明するのは大変だ。


いま21手の詰将棋を考えてみよう。簡単化のため王手のかけかたと逃げ方は、21手先まで5通りずつあるとしよう。組み合わせは5^21(5の21乗=476837158203125)だ。ところが、詰将棋では、一番詰みやすそうな王手のかけかたから優先して読む。それで相手がどう応じても詰むことだけ証明できれば、詰みを証明したことになる。(もし、「一番詰みやすそう」なのが正解手だった場合は)このとき、組み合わせは5^10(=9765625)だけで済む。これは前者の1/5^11(1/48828125)しかない。証明するのに必要な計算オーダーが8桁も違うのだ。よって、詰むことを証明するより、詰まないことを証明するほうがはるかに難しい。


上の局面は「なんか詰みそうで王手は相当かかるんだけど、でもどう応じられても詰むかどうかまでは組み合わせが多すぎて調べにくい」のだ。これを羽生名人は詰まないことを21分かけて読みきる(詰まなければ5三香成で勝ちなのは有段者なら見た瞬間わかるだろうから、そこに時間を費やしたとは考えない)のだが、これも網羅的に調べたのではなく、詰みそうな筋を調べてみて詰まなかったから詰まないと判断したに過ぎない。網羅的には調べていない(将棋世界96年8月号)し、この局面で詰まないことを証明するのに調べなくてはならない局面数は1000万ぐらいあるので、網羅的に調べていたらこんなものは人間が21分で調べきれるものではない。そもそもプロは網羅的には調べない。将棋の強い人ほどその傾向は顕著だ。


それではコンピュータではどうだろう?こういうしらみ潰しは得意なはずだ。局面の形勢を判断する必要がないからだ。ためしに激指3で解かせてみたところ、私のマシン(Pentium4 2.53GHz)で、わずか1分で「詰みません」と表示された。羽生名人をして21分もかかった詰まないことの証明がわずか1分で、だ。森内八段が5分かけて「詰む」と錯覚した局面について、わずか1分で「詰まない」ことを証明してしまったのだ。私のマシンはお世辞にも最先端のマシンとは呼べないので、いまどきのマシンならばこの1/5ぐらいの時間で「詰まない」ことを証明できるだろうし、数年後のコンピュータならば、この局面が詰まないことを1秒未満で証明できるだろう。


そして、仮に羽生名人が21分で1000万局面すべて読めていたとしても、どれだけ過大評価しても秒間8000局面しか読めていないことになる。実際ははしょって、はしょってそれなので秒間ともなると10〜30局面ぐらいしか読めていないだろう。もちろん、その読みを絞る精度たるや、恐るべきものなのだが、読みのスピードはコンピュータに到底かなわない。全盛期の羽生名人をして、そうなのだ。


結局のところ、こういう終盤の詰むか詰まないかの読みではどう頑張ってもコンピュータには敵わない。そもそも人間は網羅的に読まない(読めない)ので、詰まないことを証明するのは至難の業だからだ。だから、ある局面を見て詰みそうか詰まなさそうか、という感性に頼らざるを得ない。とりあえずはそう結論できるだろう。(つづく)

*1:参考資料:保坂 和志著「羽生 21世紀の将棋」