そりゃもう、自分が天才かと思うほどわかりやすかった本!

「これならわかる応用数学教室」(ISBN:4320017382)これがわかりやすくてたまらなかった。本当は別の射影幾何学の教科書を買ったついでに、図書券が余っていたので安かった(2900円)ので衝動買いしただけだったのだが、ホントよかった。射影幾何学の本そっちのけで読んだ。それも、なんか、すらすら読めて、ルジャンドル・チェビシェフ・エルミート・ラゲールの多項式、あと、離散コサイン変換、主軸変換、ウェーブレット解析まで数時間でわかってしまった。(元々知ってたのもいくつかあるが)

本の章立てがホント、系統立てられていて無駄がない。こういう無駄のなさ、好きだなぁ..。同じ手法で押していくのでわかりやすいし。段階もきちんと踏んである。高校卒業程度の知識で十分読める良書である。

なんか3Dを勉強することに決めてから、数学力をちょっと取り戻そうと寝る前に数学の「30講シリーズ」やら何やらを順番に読んでいたりするのだ。理解できるとか出来ないとかそんなの関係ない。 小説のように読む。読みたいから読む。知的好奇心で読む。興味本位で読む。週刊文春のゴシップ記事を読むのと同じ感覚で読む。それくらいの気持ちで読むのがヨロシイ。あまり肩肘張ると長続きしない。

系統立てるとか、無駄のないようにする、というのは、こういう教科書や本の構成の次元のみならず、プログラミング、そして文学にも共通することだ。プログラムを正しく構築していける人は、つねに自分のプログラムについて系統立てて(矛盾のない)無駄のない説明をすることが出来る。これが出来ない人のプログラムは信用できない。そして、そういうプログラムを書く人の人間性もなんだか怪しい気がしてくる。もちろん、それはある種の拡大解釈なのだろうけど、実際のところ私の場合プログラムを20年以上やっているわけだし、プログラムを通じて相手が何を考えているか想像がつくことがある。ここの一行を書いたときに、相手はモニターの向こうで歯ぎしりをしていたなとか、この一行に至っては、眠い目をこすりながらやっていただろうだとか、ここは会社に行く前に急いで修正したのだとか。そういう風にプログラムを一種のフィルターとして相手を見てしまう。しかし、決して「プログラムにバグがあるからこの相手の人間性は信用できない」とかそういう判断はしてはいけないと肝に銘じている。

実際のところバグは、そういう単純なものではないのだ。バグが産まれてくる過程は、もっといくつものファクターが絡んでくる。時には、ちょうど推理小説で作者が仕掛けた罠に読者がミスリードされるかのようにして、産まれてくる。そんな作者の罠にひっかかった読者の人格や人間性を否定してはいかんと思う。むしろ、めったにバグを起こさない人間は、他人のあら探ししか出来ない人間不信者かも知れない。

それはともかく。話を少し戻そう。系統立てて小説を構成すると言えば、三島由紀夫の「金閣寺」を思い出した。以前、稲葉さんが「なんと無駄のない小説だ」と書いてたが、私もそう思う。

主人公は、空襲によって焼け滅ぶ金閣寺と共に滅んでゆく自分の死を渇望している。美しい日本の美とともに、自分も死ぬ。その同時完結性を望むわけだ。ところが金閣寺は焼けずに残る。そのとき主人公に言いようのない断続感が生じる。要するにこれは殉教の美学なのだ。主人公は金閣と共に滅ぶことで永遠性を獲得しようとした。これが叶わんなら、もう、いっそうのこと燃やしてしもたろかい!とか考えだすわけだ。

もっとわかりやすい言葉で言えば、「オレ、あぶらギッシュなロリコンメガネデブオタク。自分でも自分はキモヲタだと思うけど、だからってどうしようもないぜ。あっ、あそこにカワイイ幼女が。あいつにいたずらして幼女のエキスを得て、パワーアップだヽ(`・ω・´)b」..って、それはぜんぜん違うような気がしてきた。なんか日本で一番馬鹿な三島評論を書いてしまった気がする..それも歴史に残るぐらいの馬鹿さ加減で。もう今日は寝よう。おやすみ。