ペットは家族じゃなかったの?




今回の震災の10キロ圏内に住む知人が、避難所に避難する際にペットの犬を避難所に連れていけず、やむなく置き去りにした。


その知人の娘は彼に泣きついてこう言った。


「ハナ(犬の名前)は私たちの家族じゃなかったの?家族を見殺しにするの?」


その知人はこう言った。


「ハナは確かに我々の家族だ。だけど犬なんだ。犬と人間とでは命の重さは同じではないんだ。たとえそれが家族であったとしても、だ。」


娘はそんな説明には納得できなかったからこう尋ねた。


「命に重いとか軽いとかあるの?」


その知人は毅然とこう言った。


「ある。命に重いとか軽いとかは、あるんだ。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって生きている。命を持っている。でも、その命は人間の命の重さとは等しくない。もし、ミミズの命と人間の命が交換可能で、そして人間の命がミミズほどに軽ければ、誰か人が死んでも誰も悲しまないだろう。ミミズと人間とは命の重さが違うんだ。だからこそ人の命は尊いんだ。わかるかい?」


「わからない!ぜんぜんわからない!」その娘はパパのズボンにしがみつきながら泣きじゃくった。



その知人の話はそこで終わりだ。たったそれだけの、どこにでもあるような、たわいもない話だ。



だけど、私はその知人の話を聞いているときから、その知人の論法は根本的なところで間違っていて、実はその知人の娘さんのほうが正しいんじゃないかと密かに考えていた。しかし、いま一つ自分の考えに確信が持てず、ついぞ言い出せなかった。



そのことについて以下にだらだらと書いてみたい。



人間が地球上で人間以外の動物を食料として食することが許されるのは、人間が地球上で一番高い知能を持っているからではなく、人間を集団として見たとき地球上で一番強いからにすぎない。


「知能の高さ」と命の価値とは何ら関係がない。ゴキブリが人間より高い知能と高い武力を持っていたら人間の命はゴキブリより軽く、そして人間はゴキブリに食べられても仕方ないと言うわけでもあるまい。


要するに人間が地球上でいま一番ふんぞり返っていられるのは、ただのファシズムだ。人間の命が一番尊いだとかそんなこととは何の関係もない。単に人間が地球上で一番強いから他の生物の命を自由に蹂躙でき、人間の命が一番価値が高いかのように見えるだけだ。


それは錯覚以外の何物でもない。もともと命に重いも軽いもない。生物学的な、“生きている”という生命の活動がただあるだけだ。そしてその種を集団として見たときに、強いか弱いかという強さによる他の生物の命を蹂躙できる序列があるだけだ。


人間は地球上で一番偉いわけでもなんでもなく、たまたま集団として見たときに一番強かっただけのことなのに、他の生物を食料として食すのは、他の生物にいくら謝ったところで許されるものではない。


みんなが食事の前に何気なく言う「いただきます」と言う言葉は、「(ごめんね、ごめんね、食べてごめんね。あなたより私のほうが偉いわけでもなんでもないのにね。あなたより私の命のほうが尊いわけでもなんでもないのにね。たまたま人間という種族が地球上で一番強かっただけのことなのにね。許してなんて言えないけど、あなたの命は決して無駄にはしません。必ず、私の血とし、肉とします。いまからあなたの命を)いただきます。」のような謝罪のための、そして祈りの意味をこめた言葉であるべきだ。


話を戻すけど、置き去りにしてきたペットは、その命が人間の命より軽いから置き去りにしても良かったのでは決してない。ペットは限りなく“家族”に近い存在ではあったが、やはり本当の“家族”ではなかったから自分たちの生活のために置き去りにした。事実はそれだけではないのか?