賢い人は宝くじを買わないのか否か


最近、確率計算がマイブームだ。とあるオンラインゲームのドロップアイテムの確率を四六時中計算している。いやそんなことはどうでもいいのだけど、少し気になる記事があったので言及してみたい。

射幸心と価値(本の虫)
http://cpplover.blogspot.jp/2012/05/blog-post.html

「賢い人間は、入力より期待値が低い行動は行わない」というのは正しくないと思う。


私が中学生のとき、宝くじの当選確率から期待値を計算する数学の授業があった。授業では期待値は宝くじの値段より低く、長期的にやり続けると損をするということを教えられた。


しかしこれには話の続きがあると思う。


現実的には長期的にやり続けないし、1回でも1等(+前後賞?)が当選した時点でやめるのではなかろうか。



次のような状況を考えてみる。


あなたはいま50歳でまだ会社勤めをしている。あなたは自分の資産を残す子供や家族がおらず、資産を使いきって死にたいと思っている。ところが、退職金や年金を考慮するとどうしても2000万円ぐらいはお金が余ってしまう。だからと言ってこの2000万円を0円にするように調節して生活水準を少し上げたいとは思わない。生活水準はいまのままで何も不自由していないからだ。


こういう状況でこの2000万円分のうちのいくらかを宝くじに費やすのは合理的な行動なのではなかろうか。


宝くじを買わない場合 → 定年まで会社勤めが続く
宝くじを買った場合 → 1等が当たればそこ以降、働かずに済むし、当たらなくとも宝くじを買わない場合と生活は変わらない


つまりわずかな確率であっても「そこ以降、働かずに済む」可能性があるほうが得な選択だと言える。自分の生活水準を崩さない範囲で宝くじを買うのは合理的でありうるのだ。(現実的には、宝くじ以外の方法もあるだろうけどいまは考えないことにする。)


このようにゲーム理論的に見て、「入力より期待値が低い」ようなギャンブルもやってみるのがベストな選択である状況が存在する。ごくわずかの確率であってもハイリターンが得られるときは特にそうだ。野球で9回、満塁のときに逆転を賭けてホームランを狙う(ホームランになる可能性は低いとしても)のは、合理的な選択肢かもしれない。


そう考えると我々の射幸心という存在は、合理的な選択をするために必要だったからこそ人類の進化の過程で残ったのではないかという気がしないでもないのだが。