国内初の商用アンチウイルスソフトのこと


なんかそろそろ忘年会のシーズンですが、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
そう言えば、去年、私が出席した忘年会には、国内初の商用アンチウイルスソフトの作者が来ていました。


初のと言われても、
「そもそも国産のアンチウイルスソフトなんてあったの?」
という人がほとんどだろう。


ウイルスバスターにしても、日本用にカスタマイズされてはいるが中身は海外のものをローカライズしただけだ。いや、最近では純国産のものもいくつかあるにはあるのだが、商品名を知っている人のほうが少数派だろう。


まして、「国内初の」なんて言うと誰も知らないだろう。いくらグーグル先生に聞いてもまず出てこない。
もちろん、Wikipediaにも載っていない。


こういうインターネットが普及する以前の歴史というのは、有史以前にも似て、なかなかインターネットには情報が無かったりするのが実状だ。


だからみんなが知らないのは無理からぬことだ。いわば日本のコンピュータ史の暗黒面(?)なわけだから。


今日はその話を少しだけしよう。


国内初のアンチウイルスソフトの開発者は、正岡孝一さんだ。私は昨年の忘年会でお会いした。正岡さんは正岡子規の末裔だそうだ。「正岡子規」って言っても私はそんな名前、国語の教科書でしかお目にかかったことがないのだが…。


正岡孝一さんが言うには、当時(20年ぐらい前)、国内初のアンチウイルスソフトを開発し、新聞や雑誌で「正岡子規の末裔」としてとりあげられたところ、血のつながっている遠い親戚という方からの連絡がいくつもあったそうだ。どうも、正岡子規の子孫は日本国内には結構な数いらっしゃるようである。*1


私は正岡さんとは、20数年前に一度お会いしたことがあるのだがじっくり話すのは去年の忘年会が初めて。自分で言うのも何だが、私も正岡さんも当時(20数年前)は、ちょっと世間で名の知れた天才ハッカー少年だった。だからお互いを名前ぐらいは知っていたわけだ。



このことを詳しく説明するために、そこからさらにもう10年ほど遡って話をしよう。


私は30数年前にマイコンを触り始めた。それはパソコンが普及するずっと以前であって、「コンピュータ業界」という業界そのものが存在するのかしないかというぐらいのコンピュータ黎明期であった。


そのころにマイコンを始めた者は、これが仕事に使えるはずもなく、おしなべて皆、道楽や娯楽、趣味としてマイコンに没頭していた。すなわちそれは盆栽いじりやペーパークラフトなどと同じ次元であった。金になるからやっていた者なんてほとんどいなかった。やっていて楽しいからやっていたのだ。みんなそうだった。


言わば、紙飛行機を誰が一番遠くに飛ばすかを競いあっている小学生みたいなものだった。それがお金になるかだなんてそんなことには誰も何の興味も無かった。


そういう者達にビジネスセンスなんて備わっているはずもない。


そもそもビジネスセンスがあるならその時代に金になるかもわかりもしない値段が高いだけでほとんど実用性のない“マイコン”なんてオタク趣味の機械に触るはずがないのだ。30年ぐらい前は、マイコンに比べればワープロや電卓のほうがはるかに上等で有用な機械だったのだから。(ちなみにシャープから初代の「書院」というワープロが発売されたのが1979年。意外と早い。)


いま振り返ってみるに、私が小学生のときにDIHプロテクトを開発してから*2 、私は天才小学生ハッカーの名前を欲しいままにしていたので[要出典]、そのせいもあって小学生なのに、いろんな仕事を依頼されることがあった。ソフトウェアの解析や高速化が主だった。いまにして思えば、いろんな仕事をもらえたのは、高度な仕事内容のわりに、私はお金が特に欲しかったわけでもないので格安で引き受けていたこともあるのだろうが。


当時、市役所で使われていた財務会計ソフト(?)を高速化する仕事をしたこともある。元のソースコード(BASICで書いてあった)のボトルネックになっている部分を突き止め、そこをオールアセンブラで書きなおした。おかげで50倍ぐらい高速化されて担当者は大喜びである。まさか市役所で使われているプログラムの一部を小学生が書いていただなんて誰も思わないだろうが、本当の話だ。


そういうこともあって、周りの大人たちがあまりにも私のことをちやほやするもんだから、「自分は本当に天才なんじゃね?」と当時の私は思っていた。まあ、「俺って天才!」だとか思ってる小学生はただの痛いだけの小学生に違いないのだが、世間のことをよく知らないうちはそういう全能感みたいなものを誰もが持っているはずで、私の場合、たまたま世間のことをそこそこ知ったあとさえも、そういう全能感を持ちあわせていた類まれなる底抜けのアホだったわけだ。頭のネジが10本ぐらいぶっ飛んでたんだろう。


まあ、それはそれとして、当時、そうこうしているうちに噂が噂を呼び、私をいろんな人に引きあわせてくれる人が何人か現れた。


どうせここに書いても誰も信じないだろうから書き散らしておくけど、ある日は「アスキーの西社長(当時)に会いたくないかい?」と言われた。私は即座に断った。「アスキーと言えばMSXを作ったところじゃないか。MSXみたいな横8ドット内に3色表示できないようなダサいパソコンなんていらないや」と。


またある日はある人から「(ソフトバンクの)孫さんと話をさせてあげようか?」と言われた。これまた私は即座に断った。「ソフトバンクなんて、J&P(上新電機)にソフトを卸してるだけのショップ流通やんか」と。


物事をわかったつもりになっているマセたガキんちょだったんだろうな、私は。

本当、小学生〜高校生のころは、一体私は何を考えていたのか…当時の自分にタイムマシンを使って小一時間問い詰めに行きたい。お前は一体何だったのかと。48時間ぐらい説教してやりたい。


ともかく、私は正岡さんとそのころにお会いした。私の天狗の鼻がたぶん雲の上高くにまで到達しようとしていたころだ。「やねうらおという天才ハッカーがいる」と正岡さんの耳に入ったらしい。向こうも当時高校生で、こちらも高校生。こちらも「正岡という、高校生にしてアンチウイルスソフトを作った凄い奴がいる」という情報を得ていた。そんな折、とある会合で二人はばったり遭ったのだ。


いまでも私は思う。もし当時、私と正岡さんが手を組んでいたなら、いまの我々はシマンテックマカフィートレンドマイクロのようになっていたかも知れない。これは夢物語ではなく、当時から地道にセキュリティだけを研究をしていれば技術的には申し分ないレベルに到達していたことは間違いなく、また黎明期から事業としてやっていれば商業的にも成功することは十分可能だったように思える。我々がセキュリティソフトの会社を作るなら、投資してやるよという人も何人かいたし、潤沢な資金を調達することも可能だった。


しかし私と正岡さんは手を組むことはなかった。私はウイルスの解析には全くもって興味がなかったからだ。ウイルスなんて本当にクソつまらない破壊のためのプログラムにしか思えなかった。


確かに当時のウイルスは素人プログラマが面白半分で作ったものばかりで、技術的にはたいしたものではなかった。わくわくするようなテクノロジーはそこにはなかった。ウイルスと言えば「Surgeon買ってね!ウヒョ」と表示する程度のものだという認識だった。(この「SURGEONウイルス」は、コンピューター史上、国産ウイルス第一号だと言われている。X68000用/1989年。)


だからアンチウイルスソフトを作るという仕事は、自分の家の前に散らかったゴミを掃除するような、創造とは真逆の、後始末的な仕事だと私は思っていた。そんな私が、正岡さんと手を組めるはずもなく、こちらは「くっだらねぇソフト作ってやがる」ぐらいに思っていたし、正岡さんは私のことをたぶん「クソ生意気な高校生」ぐらいに思っていたことだろう。顔をあわせたものの、そんな状態で普通の会話が出来るはずもなく、まして、お互い手を組めるはずはなかった。


一言で言えば、当時の私にはビジネス的な視座が完全に欠落していたのだが、ただまあ、パソコンがあまねく使われ、インターネットが当たり前になり、Windowsが全盛になり、コンピュータウイルスが蔓延する世の中が来るとは当時は誰も予想だにしなかったわけで、そんな未来を技術オタクの一介の学生が正確に予想できるはずもなかった。


この点に関して、誰も私のことを批難などできないはずだ。私を批難できるぐらい先見の明があれば、当時にマイクロソフトの株を大量に購入していまごろ億万長者になっているはずで、こんなブログは見ておらず、いまごろ美女に囲まれてハワイでリゾートを満喫しているはずだから。(知らんけど)


アスキーの西さんですら、一度はマイクロソフトの副社長になっておきながらも、「マイクロソフトに来ないか?」とビル・ゲイツから誘われたのにそれを断った。(1985年) ビル・ゲイツに「You are Crazy!」と言わしめたのは有名な話だ。たぶんその判断ミスにより西さんは2兆円ぐらいの損をしたと言われている。


まあ、西さんはMSXこそが普及すると本気で信じていたのだろう。だからこそ、MicrosoftからMSXの商標を全てアスキーで買い取ったんだ。いま現在から振り返れば、西和彦は恐ろしい痴れ者だ。だけど、そんな西さんを誰もこれっぽっちも笑うことなど出来ないはずだ。当時はマイクロソフトがそんなに躍進するとは誰も想像だにしてなかったのだから。西さんは夢を持っていたのだと思う。MSXが躍進する時代が来る夢を。


MSXが思ったほど伸びなかったのは、いまにして思えば、ビル・ゲイツがそのときに言ったように「これからはハードではなくソフトの時代だ」ということではなく、もっと別の要因がいろいろあったように思うが、まあ、この西さんの歴史的な決断を現代の視点から見て語るのは少々ずるい気がするので、これぐらいにしておく。


ともかく、結局、当時の天才ハッカー少年たち(一応、ここでは僭越ながらその末席に私も含めておく)は、そんな風に思い思いの夢を持っていた。「ぼくのかんがえたコンピューターによるすばらしいせかい」が来ると考えていた。だけど彼らが思い描いた未来が訪れることは決してなかった。彼らが想像していたのとは全く別の未来が来た。


そうだ。コンピューターウイルスやスパイウェアを取り除くだけの“くっだらねぇソフト”が大きなマーケットを形成し、いまやMicrosoftまでもがMicrosoft Security Essentialsという“くっだらねぇソフト”を開発するようになった。


非情にも、どこかで未来が天才ハッカー少年達の頭上を自分たちが期待していなかった形で追い越して行ったのだろう。当時の天才ハッカー少年たちの夢はそうやって次々と儚く消え去って行ったのである。


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