物語読解時のルール


前回の私の記事(→ http://d.hatena.ne.jp/yaneurao/20110808 )のコメント欄で以下のような質問(?)を受けたので、ちょっともしドラの作者に代わってフォローさせていただきます。

「物語を素直に信じなさい」と「物語で触れられていない部分は読者がイマジネーションを働かせて勝手に辻褄が合うように埋め合わせながら読むべき」の整合が取れないの、私だけだろうか。
書かれてない部分は「読者にも伏せられた部分」であるのだから、「物語を素直に信じなさい」とのスタンスで行くなら、「知らない前提(語り部の視点)」で物語を読み解くべきじゃないかと。
最後まで書かれないのであれば、「物語を楽しむ上で知る必要のない事実」という事になる。


「勝手に辻褄が合うように埋め合わせながら読むべき」の部分は、私がもしドラの作者の小学校での授業からそう理解したというだけでして、もしドラの作者が直接そう言ったというわけではないので、まあ、そのへんは差し引いて考えていただくと同時に、この疑問に対しては私がお答えします。



私の考えでは、物語のうち書かれざる部分というのは、解釈の幅は当然あるものの、整合性がある解釈・妥当な解釈というのは、ある程度限定されており、それは、確率的な分布で表現されると思っています。これは、量子力学の実験結果が、観測前は波動関数(確率に関係する量)として表現されるのに似ています。



物語もその部分について書かれる前は、その部分については、そのような確率的分布として理解されるべきものだと私は思っています。決して、そこをundefined(未定義な関数)だとして扱うべきではないと思っています。undefinedなまま放置しようと思っても読者は勝手にイマジネーションを働かせ、その部分はその時点で整合性のとれる解釈が重ね合わされた状態として理解します。(ということを物語の作者としては想定しながら書きます。)


例えば物語のなかに「専業主婦が昼間どこかに出かけた」という記述だけあるとします。このとき、読者は「買い物か?」「浮気か?」「なにかの趣味の活動か?」など、ありえそうなものをいくつか想像しながら読みます。決して、このとき「専業主婦はどこか謎な場所Xに出かけていた」とは読者は解釈しないでしょう。


また、あまりに低い可能性は読者は思い浮かべないでしょう。(ミステリーなどではそれを逆手にとって、確率は低いけれども整合性はとれる方向にストーリーを進めると読者が意外性を感じて、面白いと思ってくれたりするわけですが) つまり、可能性の高い解釈が重なり合わされた状態として、記述されていない部分の物語は読者に理解されます。


当然、このとき、読者ごとに微妙にその、それぞれの解釈の確率の分布の仕方は違っていたりするでしょう。上の専業主婦の例で言いますと、ある人の解釈は「これは8割がた(80%の確率で)浮気してるだろ」であり、別のある人は「こういうのはたいてい(80%ぐらいの確率で)友人とファミレスでだべってるんだよねー」かも知れません。


このような確率の分布の違いこそが「解釈の幅」です。ただし、繰り返しになりますが、それは、与えられた情報に対して整合性の取れる範囲の解釈のみからなる確率分布でなくてはなりません。


つまり、「物語を素直に信じなさい」とは、解釈が「整合性の取れる範囲からはみ出てはいけませんよ」という読解時のルールのことを言っているのだと私は理解しています。


これと、「物語で触れられていない部分は読者がイマジネーションを働かせて勝手に辻褄が合うように埋め合わせながら読むべき」というのは、そこまでのテクストと整合性のとれる範囲で、読者には、波動関数的に理解される(書かれていない部分については複数の解釈が同時に成立しうる)という読解時の原理を言っており、この2つは矛盾しないのです。


以上は、私の読書時と創作時の基本ルールです。


もしドラの作者が言いたいことはもしかしたら違うかも知れませんが、たぶんそれほどかけ離れていないものだと私は想像しています。


そして、もしドラの作者は近いうちに読書術の本を書くのではないかと私は予想しています。もしそうだとしたら、その内容は、たぶん上に書いた内容に近いのではないかと私は思います。