天才とは何なのか?

天才たちの誤算―ドキュメントLTCM破綻
投資家ならばロジャー・ローウェンスタインの『When Genius Failed』の訳本『天才たちの誤算』を読んだことがある人も多いと思うが、この本のタイトルの訳はちょっとおかしいのではないかと思う。この genius は「創造に関する非凡な才能」のことで、彼らの打ち立てた経済学的なモデルに主眼がある。しかしモデルであるのだからどこかで現実と食い違ってくる(failする)のは当たり前で、ファンドが破綻したのは、そのモデルが現実にそぐわなくなったに過ぎない。彼らは最初から最後まで誤算などしていないと思う。買うと同時に売ろうとしている債権間のスプレッドは薄く、そこからまともな収益を得るには高いレバレッジを掛けるのは当たり前で、これはアービトラージ*1で儲けようとしているのだから当然のことである。そのことを「失敗の原因」であるかのように言うのはおかしい。

日本語で「天才」と言うと、他の人が一生考えてもわからないような問題をちょっと考えただけで答えを導き出したり、常人の何万倍もの記憶力と理解力を持っていて、どんな難解なパズルでもすらすらと解いてしまうかのような印象がある。


そういうタイプの天才もわずかながらいるかも知れないが、多くの学術的な分野で天才的偉業を成し遂げるのは、そのようなタイプの天才ではないだろう。


私が思うに、たいていの天才とは特定の能力にだけ傑出しており、そのこと以外には考える能力に乏しく、自分の興味のあることを考え始めると外界のことは一切頭に入らず、寝ても覚めてもそのことだけに没頭できて、集中しだすと風呂にあまり入らず、食事もとらず、72時間ぐらいは平気でのめり込み、時には恋人を犠牲にして、多くの場合、社交性の欠片も見せず、ファッションセンスも皆無であり、時には自分の全財産をかなぐり捨ててでも自分のしたい研究に没頭し、自分が興味のある分野以外では凡人以下の能力しか見せず、偏屈で頑固で粘着質で執念深くストーカーっぽい。本人はそれで幸せなのかも知れないが、世間的に見れば、ある意味、気の毒な人である。


なぜそうなのか?


多くの学術的分野では、どれだけ記憶力に優れ、どれだけ知能が高かろうと頭のなかで少し考えただけで答えに到達できるわけではなく、膨大な量の試行錯誤と膨大な量の分析を繰り返してしか新しい真実に到達できないからである。そのためには、どこまでも粘り強く一つのことに打ち込むだけの強靭な精神力がなければ非凡な業績は残せないのである。


日本語の「天才」という言葉の持つニュアンスがおかしいのは日本人が天才像自体を見誤っているからだと思う。

*1:arbitrage : 同じ通貨や証券を異なる市場において同時に売買し, 市場間の価格差を利用して利益を得ること