メイドカフェ行ってきた(2)

昨日の写真の真ん中に写ってるおっさんは、タダのおっさんではないのだ!その名前をCYCと言う。私からしてみれば、CYCさんは、スーパーサイヤおっさんであり、いったんやりだしたら桁違いにのめりこむ人だ。私とCYCさんとは、もうかれこれ10年来の付き合いであるが、CYCさんは数々の伝説を持っている。


今日は、CYCさんのピンボールの話。CYCさんは、なんとピンボールの世界大会に出場している。以下、CYCさんにピンボールの話を直撃インタービュー。



1)ピンボール大会の事


3歳のころに初めてピンボールをさわる。既に機種の名前は覚えていない。7歳の時、ピンボールが少しブームになったとき、父が管理しているゲーセンで朝から晩までタダゲーでプレイ。この時、補導員がちょくちょくやってくるが、「パパ、ここで働いてるの」という言葉が免罪符に。この頃からピンボールにルールがあり、高得点を出すタダゲーができることを覚える。Special,Extra ball等の英単語も覚えはじめる。これがもとで中学では英語が好きでむしろ楽勝に。


16歳の時に第2次ブーム。池袋のファンタジアなどは優勝商品に中型バイクなどもある。この時点で北海道では無敵状態。ハイスコアを出すと、リセットされるまで永久にディスプレイされることから、町でピンボールを見かけるたびに、ハイエストスコアを叩き出し、ゲーセンを巡って登録しまくる。


100円あれば、朝から晩までプレイでき、クレジット20余るなどもしばしば。社会人になり、東京へ出る。東京で同じようにピンボールに燃えるが、○○○*1と入力されたスコアを都内でしばしば見かける。当時、ゲーセンの店員が手動で作った偽造スコアに違いないと疑っていた。それほど、人間の出すスコアではないと思うスコアが登録されていた。ある日、新宿で、D氏と出会う。


新台がロケテストされていた。名前はプレイボーイ。台が空き、2人同時に100円を入れようとしたので、一緒にプレイすることに。ピンボールは4人まで同時プレイ可能。腕に自信があった自分は、この10歳くらい上のサラリーマンD氏に負けるわけはないと思っていた。がーーー、


しかし、明らかにプレイスタイルが違う。わしのひたすら打ち返す戦法と違い、確実にシュートはするし、ボールの扱い、技術が桁外れに違う!当然、スコアに差が現れ、大敗。○○○メンバーとの初めての出会いである。○○○は個人でなくてピンボールプレイ集団なのであった。それからもちょくちょくと会い、自分もメンバーにしてほしいとリクエスト。


○○○と出会って4年くらいした時、機会があって渡米することに。目的は、ピンボールEXPO。世界中から人が来て、事実上の世界大会も開かれる。初めて参加したのがこれ。当時のルールは、3日間のトライアルがあり、$5支払えば、2回の試技が与えられる。その2回のプレイのうち、高得点だったほうを自分のプレイスコアとし、登録される。$5払えば何度でも試技が可能。自分が納得行くスコアがでるまで時間内ならプレイできる。後半の日になればなるほど、待ち時間も長くなるので初日にぶっぱなしたほうがいいのだが、初日、2日目のトップのスコアは3日目には残っていないのが現状。3日目夜のトライアル終了時点で、 ベスト8に残っていれば決勝進出。なんと7位で決勝へ。世界の舞台を初経験。決勝は 対人トーナメントになり、相手よりスコアが上なら勝利。結果は1回戦敗退。緊張のあまり思うようなプレイもできず、世界の壁の厚さを実感。5位タイという記録でも十分満足。


その後、これを契機にいろいろな大会に出る。翌年ミルウォーキーで行われた、世界大会には各国団体戦も繰り広げられ、日本からは5人出場し、メンバーが個人3位、団体優勝、その他、自分も含め、部門トーナメント優勝など、素晴らしい記録を叩き出し、業界紙面を大きく飾ることに。EXPOには、その後12年に渡り6度出場。予選通過率100%なのは日本人でわしだけという記録を現在も更新中。近年では日本人も結構出場することになったが、日本人で通るのはわしを含めて2名というのが実情で狭き門でもある。ちなみに優勝すると、キャッシュか最新のピンボールの台を1台もらえる。だいたいはその場でオークションにかけて現金化するわけだ。もって帰れないからね。

*1:都合により伏字。クラブ名が入る