Airアニメ版

波状言論2004summer


身内で盛り上がってるので、私も負けずにコメント。


Airのアニメ版全13話は、パソコン版Airのstoryを凝縮したような感じだった。その凝縮の仕方に賛否はあるものの、アニメとしてのクオリティはかなり高いことは認めざるを得ない。DVDはコメンタリーDVDになっていて、音声モードを切り替えればスタッフによるコメント(裏話)がリアルタイムに聞ける仕組みになっている。


ASIN:B0007D5J2Y Air 1 初回限定版
ASIN:B0007TKPI6 Air 2 初回限定版
ASIN:B0007TKPIG Air 3 初回限定版
ASIN:B0007URZAQ Air 4 初回限定版
ASIN:B0007URZB0 Air 5 初回限定版
ASIN:B0007URZBA Air 6 初回限定版
ASIN:B0009G3ESK 劇場版 AIR スペシャル・エディション (初回限定版)


以下、ネタバレを含む。


AIR 1 初回限定版 [DVD]


私は、パソコン版の『Air』が発売された時期(2000年)というのは、美少女ゲームのひとつの臨界点だったと認識している。これだけヒットしたにも関わらず、美少女ゲームとしては非常に異端な作品だった。



東浩紀氏は、波状言論2004年summer(臨時増刊号)のなかで、こう語っている。



観鈴の父親は幾度かシナリオ内に登場するが、晴子によって、二人(観鈴と晴子)
の関係に立ち入ることを拒否されている。父の不在を前提として、直接の血の
つながりのない女性二人で「家族」を作り上げること。それが彼女たちの目的である。
(snip)
その努力にもかかわらず、観鈴の病はますます重くなり、その試みは、結局、
観鈴の死というかたちで突然終わりを迎えることになる。
(snip)
このように『Air』は、物語としては、父の不在あるいは無能力のうえで新しい
「家族」の構築を試み、そして失敗する作品だと要約できる。
(snip)
この作品は、物語世界内で明示されている「父の不在」というテーマと、
物語世界外で仕掛けられた「プレイヤーの不在」というもうひとつのテーマの、
レベルを横断した二重奏で特徴づけられる。プレイヤーが美少女ゲーム
対して向ける欲望は、そこでは二つのレベルで同時に脱臼されている。
そして、そのような二重の構造が必要とされたのは、美少女ゲームそのものが
キャラクター・レベルの反家父長制性とプレイヤー・レベルの超家父長制性
という対照的な志向性に引き裂かれた、矛盾するジャンルだからにほかならない。

この引用の最後の部分が一番肝心かなめな部分なのだが、これには少し解説が必要かも知れない。


Air』を観る側は物語を通して二度の挫折を強いられる。


ひとつは、「キャラクター・レベルの反家父長制性」=観鈴を救いたい、観鈴とコミュニケーションを取りたい、観鈴と仲良くなりたいという願望、これが裏切られることだ。


もうひとつは、「プレイヤー・レベルの超家父長制性」=観鈴を救えないならば性的な視線のもとで対象化したい、コミュニケーションをとれないなら永遠の少女として所有したいというプレイヤー・レベルでの否定神学的な欲望が、頓挫することである。


この二度の挫折が、美少女ゲームというものの本質を際立たせている。


AIR 2 初回限定版 [DVD]

もっと簡単に言ってしまえば、美少女ゲームってのは、ゲームの中の女の子にお近づきになって、仲良く、そして親密になりたい。できれば、セックスもしたい。そういう視点のもとに作られるゲームなのだ。


でもよく考えると、女の子と親密になろうとする行為や女の子を救いたいという気持ちと、性的に対象化してしまいたい、性的に自分の所有物にしてしまいたいという気持ちは矛盾している。そういった矛盾を潜在的に内包しているのが、このジャンルなのだ。


そして、「何を虫のいいことぬかしとんのじゃ、このボケが!そんなことはどっちもさせんワイ、この腐れヲタどもが!」というのが『Air』の採った視点なのだ。そうすることによって、キャラクター的な視点とプレイヤー的な視点の両方から、『「家族」の構築を試み、そして失敗する』というvirtual家族構築ドラマをprotectして、物語自体を完成させることが出来たのである。