望むような未来は決してこない(3)

確かに、この父が空想していたような(昔の科学者が予言したような)未来は来なかった。少なくとも21世紀の初頭にはそれらのほとんどは実現しなかった。


あと300年や500年後ならばまた話は違ってくるのかも知れないが、お手伝いロボにしても私が生きているうちに実現されることはないだろう。アクチュエータそのものの値段が高すぎるし、技術的にもまだ未成熟だ。人工知能にしても、まだまだ発展途上で機械が人間並みの知能を獲得するにはあと50年やそこらでは不可能だろう。


こういう未来が来ればいいな、こういうことが出来るようになればいいなと夢想することは簡単だ。しかし、それらを実現することは容易なことではない。携帯電話の普及でどこに居ても相手と話せるようになったが、頭のなかで考えたことがそのまま相手に伝わるどころか、文字入力に関しては下手するとタイプライター以下の操作性だ。


これは、ひどくアンバランスな印象を受ける。でもよく考えてみれば科学的な発明は(製品を作るうえで)必要な順序でなされるわけではなく、偶然の産物も含まれるから、ある分野だけ飛びぬけていたり、ある分野はひどく劣っていたりする。だから、アンバランスな未来が来て当然なのだ。


携帯電話の文字入力がタイプライターと変わらないのは、音声認識という技術がひどく立ち遅れたせいもあるし、携帯端末の速度が遅くて認識するのに十分な性能を持っていないこともある。携帯端末の(認識のための辞書を格納するような)メモリが足りてないこともある。また、速いプロセッサを使うと消費電力を食いすぎて、その電力を供給できるだけのバッテリーの開発が出来ていないというのもある。いまの液晶の電力消費が大きすぎるというのもある。さまざまな要因が重なって、結果としてこんなものになってしまった。21世紀にもなって、我々はこんな出来損ないのデバイスしか作れなかったわけだ。


だからと言ってそんな時代性を否定したところで何も始まりはしない。我々は現代に生まれ、現代に生きるしかないのだから..。