メタテキスト論考(2)

三日前にこの日記で書いた「メタテキスト論考」だが、反響自体はすさまじいものの、みんな外しすぎだ。ぜんぜん本質がワカッテない。確かにgrepのような検索したものを置換して、それを元テキストに反映させるだけならばsedとかed(edときくと勃起障害かと思ってしまうんだが)で済む。しかし、必要なのはそこではない。


たとえば、EAという英語で書かれた文章を、翻訳してJAという文章を作ることを考えてみよう。翻訳は人間が手作業で行なうものとする。ここで、あるとき、EAという元文章がEA’へとアップデートされるのだ。そうしたら、それにともない、JAもJA’へとアップデートしないといけない。通例、windiffなりexamdiffなりでEAとEA’を比較しながら、JAからJA’への変更箇所を考えていく作業となる。


これはとても面倒な作業だ。なぜなら、EAのどの行がJAに対応するのか、その関連付けがないので、EAとEA’の差が視覚的にわかったとしても、EAからそれに対応するJAへ飛ぶ作業が一筋縄ではいかないからだ。本来ならばJAにはEAのどの行に対応しているのかというメタ情報が必要なのだ。


翻訳作業に一度でも携わった人は必ずこのような事例を経験するだろう。たとえば稲葉さんは「インクリメンタル翻訳」で次のように述べられている。

http://www.kmonos.net/wlog/40.php#_1644040625


要は、考えてみれば当たり前なんですが、最初から、すべての段落すべての
HTML タグの行数を変えないように翻訳しておけばよかったんですよね。
始めに勢いで訳を開始したときに全くこの問題に気づかなかったので、
後で大変なことになりました。

この方法を何と原始的な解決方法なんだろうと馬鹿にすることはできない。これはこれで立派な手法だ。これは原文EAからJAへの対応づけとして、行を維持することによって、JAというテキスト自体に「原文の行」というメタ情報をすり込ませてあるのだと解釈できる。このような身近な例にも、テキスト自体がメタ情報を必要としていることはたくさんあるというのに、みんなはまだこの問題の重要性に気づいていないのだ。(つづく)