ゲーム情報学から見る舐めプ


格闘ゲームで発祥した言葉に「舐めプ」というのがある。舐めたプレイ、相手のことを小馬鹿にしたプレイのことを言う。格闘ゲームでわざと小パンチでとどめを刺したり、全力を出さずにプレイして勝てるというアピールをして、相手に精神的ダメージを負わせることをその目的とする。(ゲーセンでやると喧嘩になりかねない)


しかし、その実態はそれほど単純ではない。実力差が大きくある場合は別だが、実力が拮抗している場合は舐めプにも非常に神経を使う。


また、舐めプ自体に合理性がある場合もある。例えばMMORPGのギルド戦でMP(マジックポイント)消費量の少ない弱魔法でとどめを指すのは舐めプであると同時に、こちらのリソース消費量を最小化するという意味で戦略の一部として捉えられる。


格闘ゲームでも、相手が自分より格下だと思えば、序盤でわざと普段使っていない技を使ってみるというのがある。(そして、全力を出さないと勝てないぐらいの状況になってから普通に戦う) これは、一種の舐めプだが、しかし、普段使っていない技の使い道(間合い、使える状況)を発見できたりするので、上達の近道となる。 すなわち、そのようなプレイ(学習機会を増やすための舐めプ)には極めて合理性がある。


そう考えると、相手にとって失礼になるかも知れないが、戦略上、あるいはゲームを上達する上で意味のある舐めプというものが存在することがわかる。


将棋ではどうだろうか。


駒落ちの将棋は、舐めプと言えるかも知れないが、将棋文化のなかで駒落ちは失礼だと言う人はいないだろう。(自分と互角と思っている相手から、駒落ち戦を提案されると腹が立つというのはあるかも知れないが、それはさておき) このとき、駒落ちという舐めプだからと言って、上手(うわて)側(駒を抜いたほう)は手を抜いているわけではなく、全力を尽くしている。だからこそ失礼には当たらないのである。それは相手との実力差があるのでそのレギュレーションのために必要なハンデであり、お互いが全力を尽くしたときに互角にやりあえるようにするための措置なのである。


しかし将棋では駒落ち以外にも不成という舐めプがある。


打ち歩詰め回避を除けば、歩・角・飛車は敵陣で不成という選択肢は明らかな損である。なぜなら、成ったほうが、成る前の能力(移動できる場所)を兼ね備えたまま、さらに新しく能力(移動できる場所)が加わるからである。つまり、成らないという選択肢はありえない。


ところが、角不成は意外とプロの実戦でも見られる。例えば、角交換のとき、取り返す一手であることがわかっているなら、角不成としたほうが、角を裏返す手間が省ける。この理由から秒読みで時間がないときに、裏返す手間が惜しくて不成と指されることがある。


飛車不成はアマチュアの対戦ではよくある。詰みが見えている局面だと、飛車不成でも詰むことはよくあるので、(面倒だし)不成でいいやという考えかたである。


歩不成はあまり見られない。歩は成りと不成では機動力が違いすぎるので、歩不成だと手抜きされる心配がある。手抜きされる変化を相当読まないといけない。この検証のために費やす時間のほうが、歩を裏返す時間を上回るので普通はそういうことはしない。


このうち、残り時間に余裕があり、かつ、詰みが見えている局面での飛車不成は「お前なんか全力を出さずとも勝てる」みたいな主張に見えなくもないので、相手が気を悪くする場合もある。(それで喧嘩になるというほどではないだろうが。)



例えば、かまいたち戦法で有名な鈴木 英春氏がその著書『必殺!19手定跡―英春流「かまいたち」戦法〈居飛車編〉』のなかで次のように書いている。



「なぜかその人の人間性を垣間見る思いがした」というのだ。たぶん、なまくら刀でなぶり殺しにされるような印象を英春氏はいだいたのだろう。そういうのは、比較的古い考え方だと思うが、そう感じる人が少なからずいるのも事実である。


結論的には、相手に屈辱を負わせるのが目的ではない、レギュレーションとしての舐めプ、もしくは、リソースの最小化が目的の舐めプ、そして、学習機会を増やすための舐めプなど、合理性のある舐めプというものが存在する。これらの存在を無視して、舐めプされたことに腹を立てるのはやめないかというのが私の主張であり、また舐めプの意義についてこの記事を契機として考えていただければと思う。


なお、上の例で出てきた、英春氏のようなケースについては結論は用意していない。各自、自分の価値観と照らしあわせて判断して欲しい。